

皆様こんにちは、ビジャストの西野です。
今回は「あきらめること」について私の考えをお話します。
またまた過激な表現を使ってしまいますが、ご容赦くださいませ。
「夢は願えば叶う」らしいですね、最近の流行では。
「願い続けること」が大事で「夢をあきらめないこと」が大事だそうで・・・
そういえばなんかTVなどでもそんなことを力みまくりで話している人を見かけますな。
「夢を持つ」ことが生きていく上でえらく大事で、若者たるややはり大きな夢を持たねばと・・・・。
若者になんでもかんでも押し付けるな、別に60歳でも夢を持つのは自由やねんからお前が持てよ欲しければ、ってつい思ってしまうんですが。
「特に実現したい夢がないんです・・・」って全財産張った単勝車券こかしたおっさんのように蕭然としている方もいらっしゃいますが、流されてはいけません。
今なければないでいいんです。なくても素晴らしい人生は送れます。
あえて言います。「夢」はほとんど叶いません。「夢」って言うくらいですから。
ましてや願ってもそんなことは何の意味も成しません。
願うのは信仰だけにしましょう。
あえていいます、「大人になる」とは「夢をあきらめながら生きる」ということでもあるのです。
さあ、ここで読むのをやめてもいいですが、せっかくだからこのむかつくコラムをもう少し受け止めてみませんか。
幼子は「万能感」を持っています。
世界のヒーローにもなれるし、プロスポーツのNO1にもなれるし、なんにでも成れる事をこれっぽちも信じてやみません。
こんな私も小学校6年生までは間違いなくプロ野球選手か有名政治家になると
確信してました。(成長遅かったので、精神的に・・・)
私はこれを「幼児的万能感」と言っています。
大人になるにしたがって、「あきらめる」ことを知っていきます。
幼子の「万能感」から少しずつ自己認識を深めていきます。
それは「自分はできない人間だ」という認識ではなく、ぼんやりと想像していた白昼夢のような自分を少しずつ現実に近づけていく行為であり、その過程で
「自己受容」つまり今の自分をそのまま受け入れることができてくるのです。
人生にはいろんな選択枝があり、自分が見ていた白昼夢だけでない生き方を知っていきます。普通でつまんないとしか思えなかった「ささやかなこと」にとてつもない価値があったことに気がついていきます。
薄ぼんやりとした夢をあきらめても、引き換えに手にできる価値に気がついていきます。
小さくて歯牙にもかけなかった事柄が、目指すべき目標になったりします。
私自身、ほとんどの夢をあきらめて今に至りました。
■ プロ野球選手 → 問題外
■ サッカー選手 → 職業には存在しなかった
■ ジャーナリスト → 何もしなかった
■ シナリオライター → ただ倉本總が好きだっただけか
■ 新卒で入社した会社で社長 → とっとと辞めました
■ 料理人 → 挫折
■ 飲食業界で一旗 → 旗折れてました
職業以外の夢なんか書き出したらそれだけで50枚くらいになってしまうわ。
ところがそれでも不思議なもんで、今の仕事は自分でも最高だと感じてますし、なんて運のいいめぐり合いをしたものだとつくづく感じます。
しかし、この仕事をすることはこれっぽっちも夢なんかではありませんでした。だいたいが存在すら知りませんでしたし・・・・
じゃあ、私は「あきらめの人生」つまり「夢に敗れて惰性で生きている」かというと全く違います。
一時感じた夢が実現しようがしまいが、人生にはさしたる影響はありません。自分のわずかな見識で想像した「夢」など人生の全てではないのです。
いいですか、夢を持つことは大事、でももっと大事な事は「あきらめ」を受け入れることができる精神性を持つこと。
あきらめたところから新しい選択の可能性が見えてきます。
「あの仕事をするのが夢なんです・・・」
「どうしてもあの会社で仕事をすることが夢で・・」
「いつか起業するのが夢なんです」
実現しようがしまいが、それで人生の価値が左右などされないんです、
ちなみに「夢だ」「夢だ」ってやたらと連呼する人ほどほんとに「願っているだけ」で時間が過ぎていく傾向も強いんです。この辺は次の機会に又。